2009年01月30日

ネットは広大だわ・・・

Macの内蔵ハードディスクを起動ディスクごと総入れ替えした。

もう大分前からHD(ハードディスク)が香ばしい音を発するようになっていて、諸々のアプリの起動もどんどん遅くなってきていたし、HDがぶっ壊れてデータが全部吹っ飛んだなんて噂話を聞く度に明日は我が身とガクブルしつつずっと何もしないままで居たのだが、ようやく重い腰を上げたというわけなのである。

メインの作業としては起動ディスクであるHDを250Gから500Gへと換装しシステムとデータも全て移行(さらに動画用の400Gも500Gに換装)、ついでにこれまた壊れっぱなしでCDが扱えなくなっていた光学式ドライブも換装するという計画。
機械音痴でマシンに疎いPC素人の俺っちは、物凄く色々とググって傾向と対策を練る。
練れば練るほど分からない言葉や知らない概念が次々と出てきて、俺の処理速度がついていけずにフリーズしそうになる。
俺の脳味噌がクラッシュしてはPCが起動しないでは済まない事態なので、ええい、ままよ、と例によっていい加減な準備で実行に取り組んだ次第である。

朝から始めてまずは、光学式ドライブの換装。
Power Mac G5の光学式ドライブを一般に流通している物と取り替えると、ベゼルが内部で引っ掛かってしまうというのは先に調べて知っていたので、予めベゼルを外す。
っつーか、「ベセル」って何よ!という話である。
傾向と対策をググっていると、みな当たり前にPC用語として「ベゼル」という言葉を使っているのだが、辞書的には「bezel=刃の斜面、(指輪などの宝石の)受け溝」など英語的にはかなりマニアックな単語らしい。
要は「前面パネル」ってことらしいのだが、ベゼルって何よ!という時点で俺の脳内HDはガリガリ音を立てまくっていたのである。
ともあれ、新しい光学式ドライブの「前面パネル」をうんしょうんしょと外して、無事に換装。
なにがベゼルだよ!簡単じゃねーかよっ!と、試しにイジェクトしてみると、ウィーン…ガッっと見事にトレーが中で引っ掛かって出て来ない。
あわわわわ…
もっかい光学式ドライブをMac本体から取り出ししげしげと見つめてみると、光学式ドライブの前面パネルの上部は確かに外したわけなのだが、下部は残ったままであった。
大した厚みがあるわけでもないのだが…と思いつつ、今度はちゃんと全ての「ベゼル」を外してもっかいMac本体の中に入れてみると、今度は何事も無く美しくスムーズにトレーがイジェクトされる。
ぼっ…僕にも出来たっ!

で、ここからいよいよHDの換装とシステムの移行に取りかかり半日ぐらい悪戦苦闘(って程でもないけど)するのだが、もう書くのが面倒になったから端折る。
結果だけ言うと、HDの交換は無事に済みシステムも正常で、あまりに高速かつ静かにMacが起動することに俺はいま猛烈に感動しているのである。


んなことよりさ、こういうのって人間に例えると、臓器移植なのかね?
でも、いまの医学では脳は移植できないし、脳の交換はSFの大テーマだったりもする。
ってゆーかHDは脳味噌なのか、じゃあ光学式ドライブはやっぱ舌なのか。
そもそも、PCを人体に例えること自体に無理があるのだろうが、オペしながらそんなことを考えていた。
どうなんでしょうね、外科医の人に教えて欲しいです。教えて下さい。


あと、こういう時に必ず思い出すんだけど、宇宙人が宇宙船に乗って地球にやってくるのだが、宇宙船が故障してしまってその宇宙人には直せない。それをみた地球人が「宇宙船作るなんて文明はすぐれているはずなのに、オマエは自分が乗ってきたものも修理出来ないのか」となじる。すると、その宇宙人は涙目で「じゃあアンタらは車の構造知ってて乗ってるのか、TVを直せるのか」と逆ギレするってようなのが、星新一の短編であったような気がするんだけどタイトルが思い出せない。
俺の脳にデスクトップ検索をインストールしたい。
posted by 井川広太郎 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

映画批評から遠く離れて

こんにちは。

昨日は、「映画批評の原点を求めて ―バザン理論と映画の現在― アンドレ・バザン没後50周年記念国際シンポジウム」が東京大学駒場キャンパスで行われ、俺も聴きに行きました。

昨年から世界各国で行われているバザンに関するシンポジウムの一環で、今回はオーガナイザーを野崎歓先生が務め、発表者も諏訪敦彦監督、「カイエ・デュ・シネマ」編集長のジャン=ミシェル・フロドン氏ら、錚々たる顔ぶれでした。

久々に、こういう難しい話を聞く場に行ったのですが、非常に面白くとても刺激的でした。

始まる前は正直疲れていたし、途中で眠くなったらどうしようと思っていたのですが、全くの杞憂に終わり、3時間の間、興味が尽きることはありませんでした。

いまの俺は映画批評から離れてしまっているのですが、映画を撮るという自分なりの映画との接し方を見いだした今だからこそ、改めてこういった場は勉強になるし考えさせられるし参考になります。

いや、俺、バザン主義者だからさ。
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2009年01月27日

ハルフウェイ

ハルフウェイ 2008年/日本/85分/配給:シネカノン

halfway.jpg

スタッフ 監督・脚本: 北川悦吏子/製作・プロデュース: 岩井俊二/製作: 李鳳宇・見城徹/音楽・プロデューサー: 小林武史/主題歌: Salyu
キャスト 北乃きい/岡田将生/仲里依紗/溝端淳平/成宮寛貴/白石美帆/大沢たかお 他

公式サイト:http://halfway-movie.jp/

2009年2月21日(土)よりヒューマントラストシネマ、新宿バルト9ほか全国ロードショー
posted by 井川広太郎 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | REVIEW | 更新情報をチェックする

2009年01月26日

ユートピアズ

昨年末だったかビックコミックスピリッツに三話集中連載とかで掲載されていた『ドープ』という漫画が面白かったので、その作者うめざわしゅんの短編集『ユートピアズ』を買って読んでみた。

面白い。

この『ユートピアズ』は06年に週刊ヤングサンデーに不定期連載されていた一話完結の短編を集めたものらしく、作風はSF、あるいはシュールな不条理劇になっている。

なんかそう言えば、「短編」っていう短編は久々に読んだような気がした。作品が持つそういった歯切れの良さが心地よい。

特に、最後の2編「どつきどつかれて生きるのさ」「誰が為にカメは在る」が素晴らしい。

と思ったら、「どつきどつかれて生きるのさ」は去年に「世にも奇妙な物語」か何かで実写化しているらしい。あらまあ。

個人的な見解では、うめざわしゅんって漫画家は、SFというよりも、少し変わった人々の日常をリアルに描くことが秀でているんじゃないかと思う。

変わった世界、というのではなく、この世界にはこういう人達もいる(かも)っていう感じ。

『ドープ』も、ありそうでなさそうなマイノリティ達が吹き溜まる感じがリアルであり、また、そういった弱者を突き放しながらも頑として見つめるという眼差しの優しさに、物語的な魅惑が脈打っているような気がしてならない。

次作が楽しみなのである。
posted by 井川広太郎 at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

奇跡とは可能性の偏在である

こんにちは。
今日は中高の同期の新年会的な飲み会でした。

中高一貫校でさらに一学年の人数も極めて少ないので、毎度の連中は元より、久々に会った面子でも気心の知れた仲で楽しいものなのです。

毎年数回、何らかの形で集まる機会はあるのですが、最近はいよいよ独身者が圧倒的なマイノリティーになり、むしろ育児の話題が中心だったりして、肩身が狭くて辛いです。

ってゆーか、この歳になると、同窓会でうっかり再会して「俺、実は…」「え?あたしも…」的なウルトラCなエレキ婚が実際周辺でも数多く聞かれるわけなのですが、誠に残念なことに我が母校は男子校なのである。

中高一貫6年間の男子校なのである!

これでは奇跡もへったくれもないのです。

この歳になって改めて、しみじみと男子校などに行くべきではなかったと思います。

後悔先に立たずとは言いますが、俺の人生がウルトラCに期待せざるを得ないものだと知っていれば、決して男子校などには行かなかったのです。

そうなると残された希望は自然と小学校の同窓会なのですが、生憎小学校の同窓会には生涯一度も呼ばれたことがなく、仮に呼ばれたとしても、同級生の女子のほとんどが既に結婚しているのだと風の便りに聞きました。

いや、それがごくごく当たり前なのかも知れません。

だから俺が言いたいことは、当たり前を疑おうということなのです。

強がりでもいい、逞しく育って欲しい。

逞しく生きて生きたいのである!
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2009年01月22日

民主主義とは何か

こんにちは。

オバマは声が良い。
非常に声が良い。
なにがどう良いかって一言で言ってしまえば、彼の声は官能的なのである。

官能的な声でなされる演説は、話される政治的な見解や公約、非常に長けた弁論術と同様に、観衆を魅惑する力がある。

俺は常々、言語と音楽は本質的に同じなんじゃないかと思っているのだが、彼の演説はまさに音楽的な魅力を兼ね備えている。と思う。
どんなボーカリストとも、いかなる楽器とも、他のどんな類の音ともまた異なった独特の質感がある。
歯切れよく、しかしゆっくりと響き、なんだかコンマ何秒か遅れて聴こえてくるようで、微妙にエコーがかっており、低く優しく、心地よい。
聞き入ってしまう。
酔い痴れてしまうのである。

大統領就任演説で話されていた内容そのものは、現代が生み出した個人主義が孕む根本的な矛盾を表象しているように俺には聞こえて大変に興味深かったのだが、選挙中の数々の演説に比べれば大して面白くはなかった。

だが、それ以上に、改めてオバマの声の魅力に惚れ惚れとしてしまったのである。
オバマの声で言われると、なんだかそんな気がしてしまうのである。

声の魅力というのは、どうも理性ではいかんともし難い求心力がある。
ギリシャ神話で言うとセイレーンであり、カネコアツシで言うとキャバ・キングである。
ハーメルンの笛吹き男なのである。

誰を連れてどこに行くのか。
音のする方へ。
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2009年01月17日

用がないから用がない

こんにちは。

『福翁自伝』の中で、福沢諭吉はアメリカに留学する息子達を「留学中手紙は毎度必ず必ず出せ、用がなければ用がないと言ってよこせ」と送り出した、と確か書いてありました。
当時、アメリカからの郵船が二週間に1〜2回だったらしいので、毎度とは要するに毎週ってことだったようです。

例え特に用がなくても、直接会えないお世話になった方々に時期に合わせてご挨拶をするという年賀状、お歳暮などの習慣は、非常に合理的かつ文化的に高度な優れたシステムだと思います。

そういえば、貧しい差出人が封書の中に◯か×だけを書いて、切手を貼らずに投函し、配達人からその手紙を手渡された受取人が透かして◯か×かだけを確認して配達人に返し、配達人が郵便料不足扱いにしてまた差出人に返す、ってなんのお話だったっけ?

一方で、便りがないのは無事な証拠とか、No news is good newsなどと言ったりもします。

ところで、メールも電話も着信しない携帯電話は、一体何の存在意義があるのだろうかと俺に哲学的な問いかけを発し続けてくれます。
posted by 井川広太郎 at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする

2009年01月07日

妥協とは何か

こんにちは。いま、風呂に入りながら、ボンヤリと考えていた。引き続き考えながら、適当に書いてみることにした。行き先知れずである。読み人知れずである。いや、読み人は明らかだが、何分行き先知れずで責任は取れないから悪しからずなのである。

愛でたくも結婚した友人達に、余りに羨ましいものだから、どうやったら結婚できるのかとその秘訣を問うと「妥協」という答えが返ってくることがしばしばある。そういった場合に使われる妥協という言葉には、どこかネガティブな意味合いがコンセンサスとして込められているような気もする。いや、愛の隠し味的な当人達の謙遜や照れ隠しなのかもしれないが、いずれにしろ「妥協」という概念は、ネガティブな意味合いを併せ持つことが多いような気がする。なので「妥協しちゃ駄目だ!」とか「そろそろ妥協しなきゃな」なんて台詞が巷には決め台詞的に溢れ返っているのである。妥協したら結婚できるのであろうか。そもそも、何と何が妥協するのであろうか。

例えば、年頃の女子がいたとする。美人で、自立していて、人当たりもいい。仕事も出来る。当然、モテる。モテるのだが、独身で、恋人もいないようである。本人が独身志向というのならそれはそれで合点承知の助なのだが、生憎彼女はそうではなく、むしろ酒の席では彼氏が出来ないと管を巻いてばかりなのである。従って周囲の男子どもは、順繰りに彼女に突撃してみたりするのだが、ことごとく無惨な結果なのであり、その事実も噂として広まり、もはや彼女に近寄る輩すらいなくなってしまう始末なのである。曰く「彼女は妥協できないんだよ」。ふむ。妥協って何よと言う話である。こういった場合は、彼女は以前に燃えるような恋と大失恋をしていた可能性があって、いまだに忘れられないのである。それが成功していた仮定か、あるいは失敗した痛手か、何れにしろ記憶に捕われたまま、月日を重ねてしまっているのである。年齢は逆行できないが、思い出が時間が経つにつれ美化されることもままあることである。つまりは、彼女は「記憶と現実」の狭間での妥協点を探しているのかもしれないのである。これは、男子どもにとってたまったものではないのである。綺麗だろうが汚かろうが、思い出となんて同じ土俵に上がれないのであるむしろ、今から俺様との現実を見ろと啖呵を切ってみせたいのに、そもそも半身以上が後ろ向きでは後ろ髪を惹かれたいのはむしろ男子どもの方なのである。

なるほど、妥協とはそういったものかもしれないという仮説。つまりは「地に足を付ける」ということなのではないだろうか。例えば結婚がそうであるように、誰も結婚を終着点として目指すわけではなく、むしろ結婚から広がる次の段階への足掛かりとしての現実なのである。一緒に生活したり、家族が増えたり、仕事に身が入ってみたり、喧嘩したり、趣味や生活が充実してみたり、何より一緒に穏やかな日々が過ごせたり、子供が出来たり、そりゃもう独りではなし得なかった新たな地平での現実が目白押しなのである。堅実だからこそ「妥協」して次の段階へと進む。そう、目の前の現実と現実が、現実と現実を妥協するのであり、そうすることで新たな現実へと向き合うのである。これこそが我々の現実なのである。まさに、我々が立ち向かうべき現実なのである。

妥協、妥協と何度も言っていると、なんか変な音に聞こえて来る。だきょう、ダキョウ、Dakyou。Daが強くて、kyoが弱い感じ、uは殆ど消えかけているのである。なんか、見上げるほどのデッカいロボットが一歩一歩ゆっくりと大地を踏みしめて歩いているような音にも聞こえる。あるいは、氷壁にピッケルを打ち込んでいるような音にも思える。ダッキョゥ…ダッキョゥ…そんな、ほんの少しずつだが確実に上がっていく感じ。Dakyou、ダキョウ、だきょう、妥協。例えば「イスラエルとハマスが妥協した」なんて言葉は想像するだけで、とても美しくポジティブで幸せな響きなのである。
posted by 井川広太郎 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

謹賀新年

あけましておめでとうございます

今年も宜しくお願いいたします

 平成二十一年 元旦
posted by 井川広太郎 at 21:09| Comment(3) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする