2009年01月07日

妥協とは何か

こんにちは。いま、風呂に入りながら、ボンヤリと考えていた。引き続き考えながら、適当に書いてみることにした。行き先知れずである。読み人知れずである。いや、読み人は明らかだが、何分行き先知れずで責任は取れないから悪しからずなのである。

愛でたくも結婚した友人達に、余りに羨ましいものだから、どうやったら結婚できるのかとその秘訣を問うと「妥協」という答えが返ってくることがしばしばある。そういった場合に使われる妥協という言葉には、どこかネガティブな意味合いがコンセンサスとして込められているような気もする。いや、愛の隠し味的な当人達の謙遜や照れ隠しなのかもしれないが、いずれにしろ「妥協」という概念は、ネガティブな意味合いを併せ持つことが多いような気がする。なので「妥協しちゃ駄目だ!」とか「そろそろ妥協しなきゃな」なんて台詞が巷には決め台詞的に溢れ返っているのである。妥協したら結婚できるのであろうか。そもそも、何と何が妥協するのであろうか。

例えば、年頃の女子がいたとする。美人で、自立していて、人当たりもいい。仕事も出来る。当然、モテる。モテるのだが、独身で、恋人もいないようである。本人が独身志向というのならそれはそれで合点承知の助なのだが、生憎彼女はそうではなく、むしろ酒の席では彼氏が出来ないと管を巻いてばかりなのである。従って周囲の男子どもは、順繰りに彼女に突撃してみたりするのだが、ことごとく無惨な結果なのであり、その事実も噂として広まり、もはや彼女に近寄る輩すらいなくなってしまう始末なのである。曰く「彼女は妥協できないんだよ」。ふむ。妥協って何よと言う話である。こういった場合は、彼女は以前に燃えるような恋と大失恋をしていた可能性があって、いまだに忘れられないのである。それが成功していた仮定か、あるいは失敗した痛手か、何れにしろ記憶に捕われたまま、月日を重ねてしまっているのである。年齢は逆行できないが、思い出が時間が経つにつれ美化されることもままあることである。つまりは、彼女は「記憶と現実」の狭間での妥協点を探しているのかもしれないのである。これは、男子どもにとってたまったものではないのである。綺麗だろうが汚かろうが、思い出となんて同じ土俵に上がれないのであるむしろ、今から俺様との現実を見ろと啖呵を切ってみせたいのに、そもそも半身以上が後ろ向きでは後ろ髪を惹かれたいのはむしろ男子どもの方なのである。

なるほど、妥協とはそういったものかもしれないという仮説。つまりは「地に足を付ける」ということなのではないだろうか。例えば結婚がそうであるように、誰も結婚を終着点として目指すわけではなく、むしろ結婚から広がる次の段階への足掛かりとしての現実なのである。一緒に生活したり、家族が増えたり、仕事に身が入ってみたり、喧嘩したり、趣味や生活が充実してみたり、何より一緒に穏やかな日々が過ごせたり、子供が出来たり、そりゃもう独りではなし得なかった新たな地平での現実が目白押しなのである。堅実だからこそ「妥協」して次の段階へと進む。そう、目の前の現実と現実が、現実と現実を妥協するのであり、そうすることで新たな現実へと向き合うのである。これこそが我々の現実なのである。まさに、我々が立ち向かうべき現実なのである。

妥協、妥協と何度も言っていると、なんか変な音に聞こえて来る。だきょう、ダキョウ、Dakyou。Daが強くて、kyoが弱い感じ、uは殆ど消えかけているのである。なんか、見上げるほどのデッカいロボットが一歩一歩ゆっくりと大地を踏みしめて歩いているような音にも聞こえる。あるいは、氷壁にピッケルを打ち込んでいるような音にも思える。ダッキョゥ…ダッキョゥ…そんな、ほんの少しずつだが確実に上がっていく感じ。Dakyou、ダキョウ、だきょう、妥協。例えば「イスラエルとハマスが妥協した」なんて言葉は想像するだけで、とても美しくポジティブで幸せな響きなのである。
posted by 井川広太郎 at 01:08| Comment(0) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする
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