2006年03月10日

今年の夏はアツくなるから覚悟しとけよ。マジで。

今日さあ、来月発売される昨年俺が撮った映像の件でちょいと電話などあり。
っつーか、もう一年も前だぜ。あっちゅー間じゃね。いやになっちゃうわ。

この一年、振り返れば振り返る程、あまりにも色々な出来事があり、沢山のことをして、本当に濃密な日々を過ごしたのだが、あっちゅー間に時間は経つんだね。

昨日、割りとcloseな部類にカテゴライズされる友達の一人である『東京失格』の音楽監督のエディと呑んでて、当然言語論とか、スポーツ文化論とか馬鹿話な訳だが、その他に、作品にかける時間についても話した。

作品にかける時間っつーのは、創り手ではなく、受け手の話。

漫画一コマ書くのにどれだけ時間が掛っているか、CDアルバム一枚創るのにどれだけ時間が掛っているか。

受け手は果たして、創り手と対等に向き合えているのだろうか。

勿論、商品である以上、受け取り方はエンドユーザーの自由であるし、創り手は何ら働きかけることは出来ない。

っつーか、創り手としての俺は、観て貰えるだけで本当に嬉しい。本当に。観てくれたら、それだけで心の底から有り難い。

しかし、受け手としての自分に対しては、いつも懐疑的だ。

本当にその作品と向き合えたのか。ちゃんと咀嚼出来たのか、同じぐらいの時間の重みを体験出来たのか。

この一年間、本当に豊かな時間を過ごした。苦しむばかりの脚本執筆とか、クソ熱い中のロケとか、気が遠くなるような編集地獄とか、君のこととか。そういうの全部孕んで、映画は映画として100分に集約される。

その100分間は、他の100分と何が違うかって言ったら、奥さん!それよ!いわば俺の人生なのよ。

いま多分、クソ真面目なことを言おうとしているのだが、酔っぱらってて上手く書けない。

去年も同じようなことを言っていた気がするし。GO TO SUMMERとか。

だけど、これだけは本当のことだ。


俺はこれから、夏に向かって疾走する。
posted by 井川広太郎 at 00:53| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 東京失格 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ゲーテだかのコメントで「受け手の皆さんは創り手の私の意図したもの以上のものをお読みになるだろう」ってのがあったな。
以上か以下かは分からんけど、作品は創り手の手を離れた瞬間から宙に浮いちゃって情報と化すのでなかろうか。
とりあえず普遍性のないものはクソだと俺も思う。
Posted by at 2006年03月10日 10:57
>ゲーテ(仮)さん
今度からはちゃんと名前を書いて下さいね!
確かに”以上か以下かは分からん“けど、創り手と受け手の脳味噌を交換出来ない以上は、誰がどうみたのかは決して分からないと思う。
ところで井伏鱒二の『山椒魚』の改作の事件。作者が自ら創るという行為を継続することは自由だと思うが、同時に、読者それぞれが受け取った作品を誰かが弄ることは作者にも許されないとも思う。ともあれ、あの事件は、作品は作者からも読者からも独立した、あるいはそれらの狭間にあるものなんだということを示した事例なのではないだろうか。(なので改作した作品は全く別の作品という程度に理解すれば片付くと思う)
だから重要なことは、作品を即物的に、あるいは安直に捉えないことだと思う。映画のような時間芸術であっても、形や質量を伴う作品であっても、それは変わらない。作品と、それと向き合う自分、そして作品の向こう側(あるいは横)にいる作者との、いわば関係性にこそ作品の本質があるのではないだろうか。
だから俺は映画を創るんだと思う。
俺の映画は、今まで関わってきた全ての芸術、人間、事柄、物質、時間などへの、つまり自分の人生への、俺からの応えだと思っている。
そこには普遍性がある、と良いな。
Posted by 井川広太郎 at 2006年03月10日 17:28
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