2005年11月06日

一生分の恋をした

あんま上手に表現出来ないのだけれど、いまのこの気持ちを肝に銘じる為に敢えて書きます。

俺は、独りで生きて行く覚悟を決めました。

最近、周囲の親愛なる人達が幸せな出会いや巡り逢いを果たしていく姿を見て、それだけで俺は健やかな気持ちになるし、彼等の幸せの為になら、俺は何でも出来ると本当にそう思う。

で、彼等や、まだ見ぬ誰かの為にかよわい俺に出来ることは何なのだろうと省みるに、矢張りそれは、映画を撮り、映画を撮り続けることでしかないと思う。

俺のことなんか、皆すぐに忘れてしまうだろうけど、俺の映画は残り得る。

その余りある幸運を授かりながら、人並みに幸せになろうなんて憧れは愚かにも程がある。

人として欠け、男として落伍した俺が、映画に携われるだけで本当に光栄だ。

俺は映画に、身も心も、人生の全てを捧げます。

俺や、映画や、俺の映画で少しでも幸せになれる人がいたら、俺もそれを喜びと感じ、謹んで享受します。

辛さや、悲しみや、屈辱や、その全ての仕合せを、向上心、闘争心、自分自身の血肉にして、これからも映画を撮る為に生き続けます。

まだまだ未熟以前。これからも努力する。俺が映画に救われた恩は、返しても返しきれない程に溢れている。



多分、俺のような無知で無能で駄目な人間は、直接人として関わっても誰かを幸せにすることなんて出来やしない。

だけど、そういう俺だからこそ感じることが出来る感情や、創れる映画はきっとあって、『東京失格』はそういう映画だと誇りに思うし、映画を通じて人と関われるというだけで、俺には素晴らしすぎる人生だ。



映画である以上、人への興味は尽きないのだし、その上、寂しがりで、エロくて、馬鹿な俺だから、これからも人に甘えたり、惚れたり、頼ったりするのだろうとも思う。

だけど、弱くても、へこたれても、挫けても、この気持ちを忘れたくはないし、ここにきっと戻ろうと今は思う。



「知足」という言葉が、子供の頃から気になって仕方が無い。

“足るを知る”という読みで、中国の故事に出て来るのだけれど、この言葉の意味がずっと分からないでいた。

欲を捨ててとか、精神的な豊かさとか、自我を無くしという風に解釈されるのだけれど、多分そんなものじゃなくて、もっと深い、優しさに満ちた哲学なのだろうとずっと考えていた。

いまの俺はまだまだ知足の域に達していないのだけれど、なんとなく理解し始めたような気がする。



直ぐにここに書いてあることを翻すような行動に出るかもしれない。

そうしたら、それも俺なりの至らなさだと思うから、どうぞ指を差して笑って下さい。

そもそも情けない失恋男の戯言だしな。

そんなことすら孕んで、それでも俺は映画を撮り続けます。
posted by 井川広太郎 at 00:16| 東京 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私には何もない。
多分、一生幸せにもなれないと思う。
本気で人を愛することもできないと思う。
本気で愛されることもないと思う。
自分の事を愛す事もできないと思う。
捧げるものもない。
上手に消える事
それだけが今の願い
捧げるなにかがある事が羨ましい。
Posted by bitchcat at 2005年11月06日 10:46
何にもない人間なんていないぞ。みんな不純物だらけだ。
少しでも他人と接したら、そこに情やしがらみや記憶が生まれちまうからな。
で、それらが人間にとっては全てだとも思う。
だから、上手に消えることが一番難しい。
因にこのネタは俺の『CULT』って脚本に出てくる話だ。
ところで、上手に消えることが一番難しいからこそ、真っ白な灰に燃え尽きる為にジョーは闘い続けたんだ。
Posted by 井川広太郎 at 2005年11月06日 11:35
何か書きたくなったから書く。

脈々と受け継がれてきた過去からの遺伝子を受け継ぐために、恋をして。さらに進化する為に友人をつくり、話をしたり、遊んだり、喜んだり、悲しんだり。いろんな事をする。

そこで生まれた記憶は俺の生きる為の武器になり、仲間の武器にも成る。捧げる物が見つからなくても。本気で愛する人とか愛してくれる人が見つからなくても。

生きることへの使命感が生まれる事は多々ある。と思う。

Posted by kenta at 2005年11月06日 16:52
多分さ、本能とかいう文脈は離れたところで我々は生きているのだと俺は思う。
最近になって漸く、自分の♂としての衝動を受け入れ始めたが、世界はそれだけで完結している訳ではなく、例えば映画もたった100年の歴史だし、PCも数十年の歴史だ。携帯なんて、ほんの10年前は現状を想定出来ないような類だった。
要するに、我々の持って生まれたキャパシティを越えた次元で社会は成立していて、その中で生まれて、生きて、死んでいく。
だからこそ(脳を他人と入れ替えられない以上)、他者との対話が必要十分条件になるわけだ。
ともあれ、そうして生きて来た俺は、当然独りで生きることが出来てきた訳ではなく、皆に支えられ、活かされて来た存在なのだと俺は自覚した。
だとしたら、それに対して自分なりに応え行動し、恩返ししなきゃと、俺は思う訳だ。
勿論、それは俺個人のアイデンティティの問題によるエゴなのだが。
にもかかわらず、社会の中で全うする、つまり生活して仕事して子を産みという営みは、男として失格の烙印を押された俺には叶わぬ願望だから、せめてこのかよわき存在を映画に捧げますというそういう話。

まあ、どちらにしろお前は大事な仲間なんで、これからも見捨てないでね。よろしこ!
Posted by 井川広太郎 at 2005年11月07日 00:25
俺の新作のテーマは、ほぼ同じ観点でさらにそれを俯瞰した視点と最前線にいる視点の交錯についてなのです。
Posted by タクン at 2005年11月08日 13:40
新作!?どれのことだろう・・・
Posted by 井川広太郎 at 2005年11月08日 20:14
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