2005年11月17日

時を刻むは我にあり

最近、1日が過ぎるのが物凄く早い。

沢山何かをやったようで、何もしてなかったようでもある。
充実と後悔の抱き合わせ。
この感覚、前にも味わったことあるなと思っていたら『東京失格』の脚本執筆時と同じだと気付く。

『東京失格』の脚本執筆には、実に半年掛った。
去年の11月に開始し、原型が出来たのが今年の4月。
その間、毎日地獄のような苦悶の日々を過ごした。

脚本を書いている期間は、終止キーボードに向かっているとは限らず、脳内作業や気持ちの問題、イメージの具体化など、端から見るとちっとも関係ないような行動まで引っ括めて作業に当たる。
う〜んと腕を組んで1日が終わり、散歩して日が暮れ、落ち込んだり焦ったりしながら、それが結果として作品に繋がる。

勿論、全ての映画が必ずしもそうだとは限らないのだが、『東京失格』という作品は、自分の心身を注ぎ込む映画として制作したので、そういったメンタルな活動も伴うわけだ。

で、いまは編集中。
脚本を書いている時と違うところは確実に毎日、時間があれば一日中PCに向かっているという点だが、それでも矢張り、具体的な作業に留まらない営みがあったりする。

『東京失格』は「活きた感情を映す」ことを意図し、即興演出で撮影され、正確な台詞も決まったカット割りも無い。
従って、編集作業では、言わば「台詞書きと絵コンテ切り」を同時にやっているようなもので、これは通常の編集作業の数倍の労力を費やす。

その上、カットごと、シーンごと、シークエンスごと、そして映画全体の気持ち(の表現)に関わる作業であるから、当然、猛烈な頭脳労働であるし、想像力や知識や感性を総動員するし、精神的な消耗は頗る激しい。
わざわざそんな作品にしたのは「そうしないと表現出来ない感情」を拾い集める為であって、つまり全ては必然的であり宿命なのである。

以上、書いてて言い訳しているみたいで恥ずかしくなってきたのでこれで止めるが、因に白川幸司監督は『眠る右手を』の編集に6ヶ月掛ったし、ジョン・カサヴェテスは殆どの作品は編集に数年掛けている、とだけ言っておく。

まあ、そんなこんなで、早撮り、光速編集が売りだった俺も苦悩の日々を送っている訳だが(仕事など、その他の編集は相変わらず早いよ)、時を刻むのは時計の針ではなくて、俺自身の存在だってことだ。という30歳が間近のモテない貧乏独身男の空しい自己暗示はこれにて終しまい。

で、同様のことが50億人の中で営まれていて、その総体である社会はそれ自身が独自の時間軸を持ち、そうして世界は回っている(というより、それが世界が回るという概念そのものな)訳で、それが俺という個人に容赦なく軋轢をかますのであって、例えば俗にいう“スケジュール”というやつなんだが、こいつが厄介なのだ。
posted by 井川広太郎 at 02:38| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 東京失格 | 更新情報をチェックする
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