2005年11月27日

そして僕は恋をする

アルノー・デプレシャンの『そして僕は恋をする』を初めて観たのは、1997年、シネヴィヴァン六本木での<アルノー・デプレシャン映画祭 デプレシャンに恋をする>であった。

それから1、2年後、大学のゼミのグループ研究で、この映画を扱うことになった。俺を含めた三人が、国分寺の四畳半の俺の部屋に集まり、3時間に及ぶこの映画をビデオで観て、共同でレジュメを切った。

長作の映画を複数人で扱うとあって、観賞後にまず、ブレインストーミングに近い方法をとった。それから3人の接点である”生々しさ“というキーワードを抽出し、それがどこから来るのか、具体的なカットを幾つか挙げ、そのカットのテクニカルな技法、物語的な位置づけ、そして感覚的な印象などを分析し、それらが総じて、その“生々しさ”を演出しているという方向で論じ、結論としては、「この映画は映像、物語、感覚において“生々しさ≒瑞々しさ≒生きているという実感”が散在し、それらの総体が曰く人生であり、映画である」というようなものだったと記憶している。(そのレジュメはまだ本棚のどこかにあるはずだが、探し出して広げてみる勇気はない)

その仲間達はいま、一人は映画会社でバイヤーをしていて、もう一人は雑誌の編集者をしている。



恐らく俺の人生は、いまのような状況とも双方向的に感応し合いながら、また新たな稜線を描いて行く。

その、全ての日常に溢れる認知の限界を超えた無限の情報、物語、感情が、いままでもそうであったように、これからも気付かぬうちに蓄積し、俺を形成して行く。

それらがいつの日か誰かと、リヴェットのような「完全かつ未完成に交わり合う複数の弧」を成すことを俺は何時も願っているのだが、それは今すぐに実現するという類ではなく、言わば、また、別の話だ。



俺も、またいつか恋をする、のだと思う。



それが点とか、直線的な線とかではなく、ウォン・カーウァイ的な「果てしなき輪還」に達する為に俺が何をすべきかと問うたところで、幸いなことに、俺のやるべきことは甚だ明確なのである。



あるいは、俺は如何に己と戦っているか。
posted by 井川広太郎 at 00:15| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | lost in blog | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
デプレシャンのこの映画、大好きです
タイトルからして、好き。
でも、男の人の方がこの映画好きって人が多い気がします
Posted by アイスエリ at 2005年11月27日 02:28
アイスエリさん、こんにちは。

確かに良い邦題ですよね。配給はセテラ・インターナショナル。デプレシャンの他の作品など結構マニアックな映画を扱っているところです。

邦題だけで作品の世界観を作ってしまった映画と言えば何と言っても プレノン・アッシュ配給の『恋する惑星』を推しますが、それに退けを取らない名作っすね。

『そして僕は恋をする』自体が29歳の男の一人称映画なので、男性受けが良いのも納得できます。

まあ、要するに『東京失格』と似ているなとふと気付いて、この記事を書いたのであります。
Posted by 井川広太郎 at 2005年11月27日 02:56
きょう、プレが長作へ大学に実感するつもりだった?
あるいは国分寺に編集するはずだったみたい。
Posted by BlogPetの失格くん at 2005年11月28日 15:27
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